3/19/2023

問題解決力 (2)問題とアプローチを考える ③思考の罠v

今回は、覚知の限界④の「集団における覚知の限界」から始めたいと思います。

(①明白な情報への非注意性盲目、②自分を取り巻く環境の中の明白な変化の見落とし、③目の前の問題の一部だけに注意を集中する傾向については、思考の罠ivをご覧ください)

集団における覚知の限界とは、個人よりも集団のほうが、より多くの情報を持っているため、集団は共有されていない個人の情報を俎上にのせ、議論すべきはずのところが、集団内部で共有されている情報に焦点をおく傾向が強いというものです。Stasser & Titus (1985)によると、集団は共有されている情報を議論することに時間を費やす傾向があるとしています。本来、集団を形成する目的に鑑みれば、情報を提供しあってこそであるにも関わらず、現実の多くがそうなっていないというのは、ある意味衝撃的ともいえますが、読者のなかには思い当たるところがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ところで、集団浅慮(または集団思考)/グループシンクは、集団特有の同調圧力などによって判断能力が損なわれ、非合理な結論に至ることをいいます。本来、ひとりで考えた方策や結論よりも、集団のほうがすぐれているはずですが(個人ではなしえない多様な知識や経験、情報を活かすために集団が形成されるため)、結果はむしろ逆で、集団による思考のほうが質的に劣り、好ましくないものになってしまうということを示しています。3人寄れば文殊の知恵というのは、多くの場合、美談にすぎないということなのかもしれません。集団の閉鎖性、集団内部での異論や反論などを許容せず同一の状態を保とうとする性質、集団に対する過剰な評価などがそうさせるのでしょう。学術的にどのように考えられているかは存じませんが、この集団浅慮は、集団における覚知の限界の一つとして、捉えていいのではないでしょうか。

問題の根源を取り除こうとせずに、現象や一時的に発生した問題だけに対処するのは、覚知の限界があるためとして、ここまで述べてきました。①非注意性盲目、②変化盲、③焦点化の錯覚、④集団における覚知の限界のうち、特にどれがそれに該当するかといえば、おそらく③ではないかと筆者は思います。

前々回で取り上げた例でいえば、考えるべきところが間違っているというのが言い過ぎであれば、行動があまりにも近視眼的といえるでしょう。コロナ禍で、非常に多くの企業がウェブミーティングやオンライン商談をすることになりましたが、それがひいてはコミュニケーションの高度化につながっているかというと、筆者の知る限り、残念ながら多くがそうなっていないと思います。加えていえば、悲しいことですが、元々少なくない企業、特に大企業とその傘下にある大及び中堅規模の企業が、茹で蛙的な状態になってしまっているため、外圧でしか変わることができず、またその外圧も長く続かないのであれば、また元の状態に戻るか、或いはもっとひどくなるのだろうと思います。

最後に、覚知の限界と利用可能性ヒューリスティックの概念の類似性については、ベイザーマンとムーアによると、焦点を置いているところが異なるとしています。共通するところは、両概念共に、意思決定者にとって重要な情報が利用されないことを挙げています。

異なる点では、利用可能性ヒューリスティックは、いかなる文脈においても、最も利用しやすい情報はそうでない情報よりも、一般的な情報と思い込む傾向が人は強いとしています。覚知の限界については、焦点になりやすい、もしくはなりにくい幾つかの変数を対象にしているとのこと。このため、覚知の限界が起こりやすい文脈や、覚知の限界がもたらす結果を知っておくことで、回避することができるであろうと述べています。続きは、次回とさせていただきます。


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