3/26/2023

問題解決力 (2)問題とアプローチを考える ③思考の罠vi

思考の罠として、幾つかのバイアスを取り上げてきました。ご存知の方も多いかと思いますが、バイアスには多くのタイプがあり、たとえばハロー効果、バンドワゴン効果、後知恵バイアス、正常性バイアス、自己奉仕バイアス、プライミング効果、ダニング=クルーガー効果、フレーミング等々、少し大袈裟かもしれませんが、挙げ始めると際限がないくらいです。

筆者は研究者や学者ではありませんので、そのタイプをひとつでも多く知り、解釈を厳密に試みていくのではなく、幾つかを理解することよって、日々の仕事のなかで、できるかぎり思考の罠に陥らないようにすることのほうが重要だと考えますし、仮にその罠にはまってしまったら、どうすればそこから抜けだせるのかといったことなどを考えるほうが、実務の面ではより意味があると思います。

思考の罠に陥らないようにするためのものとして、おそらく最も重要なことは、思考の罠iiで述べた確証バイアスへの対処法として挙げた事実を一つひとつ積み上げながら考えていく行動を意思決定者と共に行うことだと思います。百聞は一見にしかずです。また、行動を共にすることで、両者のものの見方や考え方などの一端を見る良い機会にもなるでしょう。

ただ、ここで気をつけなければいけないことは、事実の積み上げ方です。たとえば見える化するのであれば、生々しいリアリティが眼前に広がるような工夫をすべきで、パワーポイントなどできれいに整理した事実を共有するというだけでは、効果は薄いかもしれません(パワーポイントが駄目といっているのでは決してありませんが、見せ方に工夫を施す必要があります)。

加えていえば、相手が感情的になってくるような場面がでてきたら、こちらは努めて冷静に振舞いながら、相手に共感するような言動も(たとえポーズであったとしても)大事だと思います。柔軟性とでもいえばいいでしょうか。更に、何故、そういう感情に走るのかといったことを、観察できるような一種のゆとりのようなものもあれば、尚良いと思います。このように考えていくと、相手や対象物を外部の人間のような目で見れること、或いは自分自身を客観的に見ることができれば、それは非常に有効だといえるでしょう。

もし、あなたが意思決定者もしくは職場のリーダーであれば、次のようなことが重要になります。それは、仮にあなたが自分の考えを明確にしていたとしても、また要望や嗜好がはっきりしていたとしても、いきなりはじめからそれを口外せず、相手の話をまずは聞き、その見解を確認すること。その際、相手が自由に話せるような場の雰囲気をしっかりと用意することです。反対意見を述べたり、疑問を呈するようなことができないような環境しか提示できなければ、その人はリーダーには不向きといえるでしょう。

ところで、そもそも最適な意思決定を都度行うことは容易ではないばかりか、様々なバイアスが起因して、かなり困難なことと感じる方も多いはずです。であれば、最適解を得られる可能性を高めるための意思決定ツールを作って、活用することは大いに意味があるといえます。そのためには、少なくとも意思決定手順と設問自体を決めておくことです。

ほかにも、バイアスに関する専門的な知識を身につけたり、バイアスが発生した時に、それを補正できるようにすること。たとえば、バイアスが発生しそうな状況下で、何らかのアラートを出すとか、組織内に反対意見を述べる役割を持った人を配置しておく、または、仮説設定に長けている人を近くに置いておき、仮説と代替案の導出を繰り返すなどが考えられるでしょう。

チェンジマネジメントの考え方のひとつに、次のようなものがあります。人が何かをしない理由、行動を阻むものには、①わからない、②できない、③気がすすまない(やる気がない)の3とおりがあり、その理由を見極めて的確な対策をとることが重要というものです。①であれば、丁寧にコミュニケーションをはかるとか、対象者を取組みに巻き込む。②であれば、コーチングをしたり、トレーニングを行ってスキルを習得できるようにする、また細かくフォローする。③であれば、説明の仕方を変えたり、交渉したり、効果を訴えたりして、実際に試してみるといったことなどが挙げられます。

但し、これらは各人の価値観に直接強く働きかけるものではありません。通常、同じ組織・企業に属していて、その上で各人の価値観に大きく抵触して行動を阻む(もしくは阻まれる)ほど大きな障害がそこにあるとは思いたくありませんが、仮にそういうことがあった場合は、価値観そのものの変革に取り組むことが必要になります。これについては、コンフリクトマネジメントと呼んで、また別の機会に触れてみたいと思います。

取組みをすすめる上でコミットメントは必須です。そのコミットメントを形成する要素は5つあって、上記のような行動の阻害要因3つ(①②③)のものは一種のレジスタンスとも捉えることができるため、これをレジスタンスマネジメントと呼びます。ほかにも、ステークホルダーマネジメントコミュニケーションマネジメントに、スキルトランスファー、そしてそもそものチームビルディングが挙げられます。

取組みを進める過程での阻害要因を見極め、的確な対策を適時とることは極めて重要ですし、特にそれが変革を伴うものであれば尚更です。克服すべきギャップも同様に5つ挙げておきたいと思います。まずはコミュニケーションギャップで、昨今の問題の多くはこれに起因するのではないでしょうか。ほかには、スキルギャップストラクチャーギャップインセンティブギャップ、あと、カルチャーギャップがあります。最近は、働き方の多様化や転職市場も以前よりはかなり流動的だと思いますので、過分に神経質になることはないかもしれませんが、カルチャーギャップ、組織の文化や風土の違いなどによるギャップには、ジェネレーションの違いも加わり、看過できないような大きな問題があると思います。これについては、組織文化のブログで、いずれ考えてみたいと思います。


3/19/2023

問題解決力 (2)問題とアプローチを考える ③思考の罠v

今回は、覚知の限界④の「集団における覚知の限界」から始めたいと思います。

(①明白な情報への非注意性盲目、②自分を取り巻く環境の中の明白な変化の見落とし、③目の前の問題の一部だけに注意を集中する傾向については、思考の罠ivをご覧ください)

集団における覚知の限界とは、個人よりも集団のほうが、より多くの情報を持っているため、集団は共有されていない個人の情報を俎上にのせ、議論すべきはずのところが、集団内部で共有されている情報に焦点をおく傾向が強いというものです。Stasser & Titus (1985)によると、集団は共有されている情報を議論することに時間を費やす傾向があるとしています。本来、集団を形成する目的に鑑みれば、情報を提供しあってこそであるにも関わらず、現実の多くがそうなっていないというのは、ある意味衝撃的ともいえますが、読者のなかには思い当たるところがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ところで、集団浅慮(または集団思考)/グループシンクは、集団特有の同調圧力などによって判断能力が損なわれ、非合理な結論に至ることをいいます。本来、ひとりで考えた方策や結論よりも、集団のほうがすぐれているはずですが(個人ではなしえない多様な知識や経験、情報を活かすために集団が形成されるため)、結果はむしろ逆で、集団による思考のほうが質的に劣り、好ましくないものになってしまうということを示しています。3人寄れば文殊の知恵というのは、多くの場合、美談にすぎないということなのかもしれません。集団の閉鎖性、集団内部での異論や反論などを許容せず同一の状態を保とうとする性質、集団に対する過剰な評価などがそうさせるのでしょう。学術的にどのように考えられているかは存じませんが、この集団浅慮は、集団における覚知の限界の一つとして、捉えていいのではないでしょうか。

問題の根源を取り除こうとせずに、現象や一時的に発生した問題だけに対処するのは、覚知の限界があるためとして、ここまで述べてきました。①非注意性盲目、②変化盲、③焦点化の錯覚、④集団における覚知の限界のうち、特にどれがそれに該当するかといえば、おそらく③ではないかと筆者は思います。

前々回で取り上げた例でいえば、考えるべきところが間違っているというのが言い過ぎであれば、行動があまりにも近視眼的といえるでしょう。コロナ禍で、非常に多くの企業がウェブミーティングやオンライン商談をすることになりましたが、それがひいてはコミュニケーションの高度化につながっているかというと、筆者の知る限り、残念ながら多くがそうなっていないと思います。加えていえば、悲しいことですが、元々少なくない企業、特に大企業とその傘下にある大及び中堅規模の企業が、茹で蛙的な状態になってしまっているため、外圧でしか変わることができず、またその外圧も長く続かないのであれば、また元の状態に戻るか、或いはもっとひどくなるのだろうと思います。

最後に、覚知の限界と利用可能性ヒューリスティックの概念の類似性については、ベイザーマンとムーアによると、焦点を置いているところが異なるとしています。共通するところは、両概念共に、意思決定者にとって重要な情報が利用されないことを挙げています。

異なる点では、利用可能性ヒューリスティックは、いかなる文脈においても、最も利用しやすい情報はそうでない情報よりも、一般的な情報と思い込む傾向が人は強いとしています。覚知の限界については、焦点になりやすい、もしくはなりにくい幾つかの変数を対象にしているとのこと。このため、覚知の限界が起こりやすい文脈や、覚知の限界がもたらす結果を知っておくことで、回避することができるであろうと述べています。続きは、次回とさせていただきます。


3/13/2023

問題解決力 (2)問題とアプローチを考える ③思考の罠iv

前回(思考の罠iii)は、問題の根源を取り除こうとせずに、現象や一時的に発生した問題だけに対処するのは、覚知の限界がおこるためと述べました。覚知とは、「さとり知ること」と広辞苑には記されています。覚知の限界とは、M.H.ベイザーマンとD.A.ムーアの「行動意思決定論」によると、様々な領域に及んでいて、次のようなものがあるとしています。

①明白な情報への非注意性盲目

②自分を取り巻く環境の中の明白な変化の見落とし

③目の前の問題の一部だけに注意を集中する傾向

④集団における覚知の限界

⑤戦略的意思決定における覚知の限界

⑥オークションにおける覚知の限界

なお、ここでは①から④までを取り上げます(今回の「現象や一時的に発生した問題だけに対処する」理由として、覚知の限界を挙げているため)

①については、眼前で起こっていることであっても、自分がほかに探しているものがあれば、なかなか見えてこないということを指しています。Simon & Chabris (1999) の実験では、Neisser (1979) の2チームに分かれバスケットボールでパス回しを行った実験を発展させ、パスの最中にゴリラの恰好をした人が、プレーしている選手の間を歩き、おどけたポーズを5秒間したにも関わらず、多くの人がそれを見落としたという結果を得ました。

こういった類いのものは、数多くの実験で証明されているとのことで、今世紀はじめくらいから「非注意性盲目」として知られるようになりました。働く場においても、利用可能な様々な情報を簡単に見落としてしまい、自分の周囲にいる者から、直接話を聞いたとしても、相手が何か思い違いをしているのではないかと考えてしまう、そういったことがあるのを示しているといえるのではないでしょうか。

②については、「変化盲」として知られています。視覚に関する多数の研究から導き出されることのひとつに、変化がゆっくり起こっていることに対して、人はそれを認識することが不得手であり、見落としてしまいがちだということです。所謂、茹で蛙状態のことをイメージすれば、分かりやすいだろうと思います。

「滑りやすい坂(Slippery Slope)」理論(または「滑り坂」理論)によると、一つのことを容認すれば、なし崩し的に対象が広がったり、定義が拡大解釈されたりして、最終的に取り返しのつかないことになるといいます。

決められたことや倫理的価値などに対して、突然何の断りもなく破棄したり、前触れなく一斉に無視をしたり、或いは初めから大きく逸脱するといったことは、あまりないといえるでしょう。実際、そのようなことが自分の身の回りで起これば、その変化に気づくだろうと考えるのが普通ではないかと思います。また、いきなり最初から、目立つようなことをする人は稀なはずです。ですので、その坂は滑りやすいとはいえないでしょう。

ですが、ほんの少しだけなら、またはわかるかわからないくらいの感じでゆっくり外し始めたら、どうでしょうか。幾つかの小さな動きによって、徐々に、ゆっくりと変化していけば、仮に、それが自社の倫理基準などから外れていたとしても、その時の自分や周囲などが置かれている状況に照し合せて、受け入れてしまうことになる(もしくは、受け入れてしまうこともある)といえるのではないでしょうか。

③については、焦点化の錯覚」として知られています。焦点化とは、ある一つのことに注意を集中していると、そのほかのことについては注意を払わない傾向があることを示しています。焦点化の錯覚とは、今見ているものや考えていることについて、過剰に評価する行為(思考)をいいます。

Schkade & Kahneman (1998)は、人が判断する際は、利用可能な一部の情報しか用いず、且つその情報を過度に重視する一方で、注意をしていない情報に対しては、軽視しすぎる傾向があるとして、これを「焦点化の錯覚(focusing illusion)」と定義しました。また、Gilbert & Wilson (2000) ほかによると、「焦点化が起きれば、焦点事象が占める割合と、焦点事象への自分の感情的反応の接続時間の両方を過大評価する傾向がある」としています。

このことはプロジェクトの進行や成否と、それが自分の心にもたらすポジティブ或いはネガティブな影響を過度に評価することについても適用できると思います。たとえば、コミュニケーション高度化の取組みが、自身に与える影響について、たとえば、新しいコミュニケーションのツールを習得しなければならない。いつでもどこでも上長や部下などとコミュニケーションを頻繁にとっていかなければならなくなり、それもできる限り効率よく且つ効果的にしなければいけない。それがまた自身の評価にもつながるし、自分もそのように部下を評価しなければいけなくなる。コミュニケーションをうまくしようとすれば対面でもそんなにたやすくないことがあるにも関わらず、オンラインともなればある意味手間もかかるし、面倒なことばかりが増える。結果的に、本来自分がしなければいけないことができなくなってしまう等々、こういったことを過剰に考えすぎて、最終的に正しい判断ができなくなってしまう。

本来であれば、高度化の実現により、自身が今まで取組めなかったことに着手できたり、新しい知識やスキルの習得により、自分の大きな成長につなげる契機にできるかもしれないなど、肯定的な側面のほうが多いはずにも関わらず、「目の前の問題の一部だけに注意を集中する」ことによって、本来考えるべきことが考えられなくなってしまう。そしてその結果として、大きな機会逸失が、個人にも企業にも発生し、組織の老化が進んでいくのだろうと思います。

変化することを嫌ったり、避けたりする人が少なくないですが、変化することこそが自身の成長、少なくとも生き残っていける可能性を手にすることができると思います(或いは、生き残っていける資格を手に入れられるかもしれない)。ましてや、世の中が変化しているわけですから、前提として企業や自分自身も変化しなければいけないはずですが、残念なことに、多くの?ビジネスパーソンはそのようには考えないようです。④については、次回で述べたいと思います。


3/05/2023

問題解決力 (2)問題とアプローチを考える ③思考の罠iii

問題解決力における思考の罠の3回目は、問題の根源を取り除こうとせずに、現象や一時的に発生した問題だけに対処することについてです。(思考の罠i思考の罠ii)

多くの事案が適用できますが、ここでは、社内外でのコミュニケーションの円滑化や高度化などを目指してデジタル化を推し進めるも、うまくいかないケースについて、少し取り上げてみたいと思います。

持ち株会社によるグループ内企業の全体統治を行う企業はたくさんありますが、コミュニケーションの停滞により、問題が頻発している会社は少なくありません。本社と事業会社、本社内での経営とスタッフ、さらには一事業会社内における同一部門内の各階層間でも起こっているわけですから、グループ内の事業会社間同士は言うに及ばずです。

デジタル化であろうとなかろうと、本来、職場には多様なコミュニケーションの場があるにも関わらず、本社の事業会社に対する業務の支援が不足していたり(或いは、ほぼ皆無であったり)、一企業内での仕組みが機能不全を起こし、更にそれを改良する新たな仕組みづくりの機会も事実上存在していなかったり、何より、それぞれの職場で省察の場が決定的に不足している、こういった事象はごく一部の企業に限定されるものではないでしょう。このようなことの多くは、今日のデジタル化以前から顕在化していた問題です。それを、現在のデジタル化でいきなり解決しようとしても、そもそも少々無理があるのではないでしょうか。

筆者は、日本人なら誰もがその名を知る大企業の現場で、目を疑うような経験を何回かしてきました。ここでそれらに触れることはありませんが、まさにfreeze(凍りつく)することさえありました。問題は、そのようなことが発生しているというのではなく(勿論これも問題ですが)、本社や事業会社の執行役員含めたマネジメントの多くが、それをわかっているにも関わらず、何ら手を打っていないということです。中には、正義感の強い?役員が、注意し是正しようとすることもあるのですが、現場はお構いなしというか、何を言われているのかよくわからない、或いは、何がいけないのかというような態度でいる状況です。

何故、このようなことが起こっているのでしょうか。遡れば1990年半ば以降、日本の労働生産性(一人当たりのGDP)や、国際競争力の順位が下がり始め、世界的なイノベーションが生まれなくなってしまったことは、多くの人が知ることです。この事実と、デジタル化によるコミュニケーションの高度化がうまくいかないことの理由は、根源的には同じものだと筆者には思えます。

所謂、共同体意識が都度作用し、その時々でどのように振舞うのがよいのか(または、いけないのか、もしくはどれくらいまでなら許されるのかなど)を判断しているからというのが大きな理由なのだろうと思います。その意識の度合いが非常に強く、上述の例のように、悪い方向に作用すると、何をやっても咎められないといった空気が職場を支配しているといえるでしょう。この場合、善悪や是非を判断する人はそこには存在せず、空気が決める、空気に従い行動するというようなことになってしまいます。ただ、唯一(?)の救いは、研究や開発といった理系出身者が多くを占める職場には、こういった空気感を感じることはあまりありません。

ところで、少しデータが古く、また、サンプル数が不明ではありますが、ギャラップ社によると、日本で、熱意溢れる社員は全体の6%、周囲に不満をまき散らしている無気力な社員は24%、やる気のない社員は70%という2017年の調査データがあります。また、野村総研が2005年に20~30代の正社員に対して行った調査では、仕事に対して無気力感がある人は75%、3年前と比較して成長実感がない人は43%、潜在的な転職希望者が44%に上るという、当時、衝撃的な結果がでました(ピュアな気持ちでこの数字を見ると、今でも十分衝撃的ではありますが・・・)。実際、日本の職場では、欧米と違って、同僚が困っていても助け合わないし、知識やノウハウも教え合わないといった調査結果を、過去に見た記憶があります。

このような状況に陥った理由をここで考察することは、本ブログ(問題解決力の思考の罠)の主旨に沿うものではないため、ほどほどにとどめておきますが、ひとつには日本では特に強い共同体の同調圧力、これを下支えする非公式な組織の存在が挙げられるでしょう。非公式な組織では、暗黙のルールに従わなければ、そこではやっていけず、このため、仕事をしなければ周囲に迷惑をかけ、一方で、仕事をしすぎると周囲も同様に頑張らなければならなくなるので許されないといったような状態が続いています。はじめから、いきなりこのような状態ではなかったはずですが、いつの間にか暗黙のルールのようなものが徐々に増え、大きなものになってしまったのだろうと思います。

加えて、人事制度の問題があります。3~5年程度で本人の意志とは別に異動があることが多いうえ、やってもやらなくても評価はさして変わらず、ましてや高評価を続けて得ようものなら昇格(または昇進)はあっても昇給はわずか、挙句の果てに責任ばかりとらされるようになる、というような状況が延々と続いている。であれば、そこそこに働いて、そこそこの給与のほうがいいんじゃないかということになってしまう。このような共同体意識での同調圧力、社員には暗に組織に従属(または隷属)することを要求しつつ、一方で通常以上の?成果(及び報酬)を期待することはできないわけですから、過去にあった成果主義がうまくいかなったのは当然のことかと思われます。

3つめの思考の罠として挙げた現象や一時的に発生した問題だけに対処することについては、覚知の限界がその理由を説明できるのではと筆者は思います。長くなってきましたので、続きは次回とさせていただきます。


ブランディング (4)ターゲティング ②セグメントの評価i

市場特性は、様々な要因に左右されます( ブランディング (4)ターゲティング ①セグメントの評価項目 )。 規模と成長率だけを考慮すればいいというわけでは決してありません。 大規模で右肩上がりに成長を続けるセグメントが有望であることは事実ですが、それ以外の要因が同じであることはめ...