3/13/2025

ブランディング (6)日本市場の特殊性④

ソロ活は、飲食、旅行、ドライブ、スポーツ・レジャー、読書、美術、映画、音楽、演劇、ショッピング、エステ関連などの分野にあると言われています。まあ何でもソロ活にできるのかもしれませんが、これらの活動には、モノの消費というよりは、コト消費の面が強いのは明らかです。自分へのご褒美というのは随分前から言われていますが、ふだんと少し違う環境に自分をおいたり、いつもと同じ暮らしの中でわずかでも変化が感じられる体験をするといったことなど、そういった要素が盛り込まれていて、たとえ束の間でも自分だけのために時間を使うことができるといったことがポイントになるのだろうと思います。

人はモノやサービスに接する際、あまり考えずに買ってしまうことが時々あります。それはモノやサービスを提供する側が、購入者の感情に訴えかけるマーケティングを行っていることがあるためです。人の感情への訴えかけを強めるマーケティングを、エモーショナルマーケティング(または感情マーケティング)といい、筆者が知る限り、21世紀になる少し前くらいから、この名称で存在しています。ただ、筆者には、今と昔では、感情や感性、感受性といったものは、かなり違うものになってしまったように感じています。今の方々には、少し申し訳ないのですが、昭和の時代のほうが、多くのことに対してもっとおおらかで、豊かな感性と繊細な感受性がそこにはあったと思います。


人の感情、なかでも欲求(ウォンツ)に訴えかけて刺激するエモーショナルマーケティングは、ウェブやSNSなどが人々の生活に深く入り込んだ今日の消費社会において、必須のマーケティング手法になっています。パッケージデザイン、キャラクター、広告のキャッチコピーなどで感情へ訴えかけるとことは、今日、至るところで見ることができます。

ただ、たとえばホームページを美しく、おしゃれに整えるのは事業規模の大小問わず大半の会社がやっていることですが、中身が伴っているかどうかは、あまり問われることはないようです。こういった現象は、企業規模が小さくなればなるほど、また、人口流出が止まらないような地方自治体ほど、多く散見されるように筆者は思います。


周りがやれば自らもすぐさま倣うというのは、まさに日本の特殊性といっていいでしょう。同じであればあるほど、ほかとの違いが分からず、人々の検討対象にならない、所謂考慮集合に入らなくなるにも関わらず、まるで競い合うように同じようなものにする、真似をして没個性化していくというのは本当にいただけません。

こういった社会では、つまるところはじめに(稚拙なレベルで)好きとか嫌いとか、他人の目から見て格好いいとか悪いといった感情が来ることになります。考える、思考するというのは、感情の後に来る。もしくは、感情の後は行動があって、最後に思考が来るのかもしれません(もしくは思考するというのは存在しない・・・)。思考がまともに行われないということは、多くの場合、他者に分かるように説明できないことになります。仮に、自分のとった行動が説明のつかないものであったとしても、無理やりでも(?)コミュニケーションで正当化するような欧米のスタイルとは異なります。

ちょうど2年程前にこのReflectionsのブログ(論理的思考(2) 論理的思考とは①)で、常に感情が先行していると、正しい判断や、そもそものところで正しいものの見方などできるはずがなく、はじめに感情が来て、その後、一気に結論・決定になることが多いと書きました。わずか2年しか経っていませんが、この間でも、感情で判断し行動する消費は一段と進んでいるように思いますし、多くの事業体もそれに倣うかのように、感情で判断して決定することが増えているように感じます。成功しているかどうかではなく、あそこでもやったからうちでもやってもらおうといった事例志向もこの一種です。


筆者は20年程前に担当したファッションアパレル系メーカーのプロジェクトで、外向的に自己を実現させようとする「なりたい自分」と、内在的な自己実現として「ありたい自分」というものをつくり、当時の消費者を27のタイプに分類したことがあります。その頃は、なりたい自分になるため、ありたい自分でいるために、少なからず努力する人々が相当程度いたと思います。ところが、今日の消費社会では、それはかなり異なるものとなってしまい、できもしないことや到底すべきでないこと(或いは、それをやっても何にもならない意味のないこと)をやって、なりたい自分になる、そのように見せるということが珍しくないと感じています。ソロに限ったことではありませんが、たとえば特に地方で顕著に見られる現象のひとつに、自分の年収の何倍もする車を残価設定で購入する(但し所有権はその消費者にはない)人たちがその典型だといえるでしょう。


ロシターとパーシーの3段階手法におけるX-YZモデル(ブランディング (5)ポジショニング ⑤3段階手法ii X-YZモデルその2)で、購買動機が社会的承認にあたる商品の場合は、ベネフィットに基づいてポジショニングするのではなく、消費者をポジショニングするほうが効果的だと述べました。

この社会的承認を少し拡大解釈することになるかもしれませんが、高級車に乗る人は、他者から、相応の生活力があって豊かな暮らしをしている、社会的ステータスが高い、人生(?)に成功している人、といったように見てもらいたい、そう評価して欲しいから、または、そう思われている人たちの仲間入りをしたい、こういったものが購入の動機にあるのでしょう。成功したから、高級車に乗るというのではないのです。実際の暮らしぶりは、まったくその逆であっても、そんなことは一見すれば分からないから(といっても、分かってしまうことが多いのですが・・・)構うことはありません。こういった姿や場の空気感といったものは、筆者にはまさに特殊な日本のあり様として映ります。このような社会的承認に対する欲求というのは男女で違いはありますが、自分を無理に肯定するかのような消費行動と、それを狙ったブランディングも、日本市場の特殊性といえると筆者は思います。


ブランディング (6)日本市場の特殊性③

日本は「単独世帯」(1人暮らし)、所謂おひとりさまであるソロ(1人)の世帯が急増しています。内閣府の男女共同参画白書の令和6年版では、2020(令和2)年には、単独世帯が全体の38%を占め、全世帯で最も大きな割合となり、1985(昭和60)年の20.8%から大幅に増加したとあります。また、単独世帯と「ひとり親と子供世帯」を合わせると、47%と全体のほぼ半数を占めるようになっています。

おひとりさまが増えているのは、結婚しない若者が増え続けていることが大きな理由といわれています。「令和3年度 人生100年時代における結婚・仕事・収入に関する調査」によると、20代の女性で配偶者や恋人がいない人が51.4%、20代の男性では65.8%。「これまでの恋人の人数・デートした人数」では、恋人がゼロ人でデートした人数もゼロ人の20代女性はおよそ25%、男性の場合は(信じられないことに)40%ほどもあるわけですから、ある意味頷けるように思います。ただ、荒川和久氏によると、40年前も今も、年齢に応じたデート経験率は同じとのことで、特に今の世代は、コロナ禍で、外出できず、デートもできなかったからではないかと指摘しています。

結婚しない人が増え続けている理由には、将来の生活に希望が持てない、結婚という形に縛られたくないとか、結婚という形にこだわる必要がないというのが主だったもののようです。みずほリサーチ&テクノロジーズの調査によると、50歳時点で一度も結婚をしたことのない人の割合をいう「生涯未婚率」は、男女ともに1985年まで5%以下で推移していたものが、1990年以降は急激に上昇し、男性の生涯未婚率は2015年に23.4%になったとのことです。


未婚率や離婚率の上昇による単独世帯の増加は、我々の暮らしや消費、産業社会、経済全般に大きな影響を与えることは明らかです。日本の人口は減少し続ける一方で、世帯数は増加の一途をたどるとすれば、さしずめ住宅や、食品・飲食、小売、旅行・観光などに関係する産業は、前提にしていた需要の形態が変わることで、非常に大きな影響を被ります(というか、すでに影響を受けています)。なかでも住宅は、戸建て、集合住宅に関わらず、商品や売り方、サービスのあり方を抜本的に見直さざるをえません。最大手の大和ハウス工業が、事実上、注文住宅から撤退し、建売・分譲住宅に大きくシフトしたことは、部材の高騰や住宅購入者の世帯(または世帯主)収入の低下だけが理由ではないでしょう。


2020年の国税調査に基づき、20~50代に限定してのソロ消費の市場は家族消費市場を上回り、その内訳はソロ活市場が3964万人以上、独身市場は2787万人、家族市場は3407万人になると、荒川氏はソロ度4象限の市場規模を算出しています。

こういったソロ社会の出現は、所得や資産の多少が大きく影響しているのは間違いないでしょう。ただ、高所得ゆえに結婚しない女性が増えてきていることなどを考えると、所得が少ないから結婚しないというのが一番大きな理由になるとは必ずしも言えません。女性の人口が男性よりも多い現状を踏まれれば、女性の市場をどのように捉えていくかが今後さらに重要なものになります。

ソロについて評論したり、研究する人の中には、世代ごとの価値観やライフスタイルなどを考えてマーケティングすることはもはや無意味とする人がいますが、それは違うだろうと筆者は思います。経済力の有無や、取り巻く人間関係含めた環境が重要であることは間違いありませんが、それはおひとりさまマーケティングがここまで注目されるようになるずっと前から、可処分所得や生活環境の違いが重要視されてきたからです。また、一足飛びにこれからはマスマーケティングではなく、パーソナライゼーションだと言う方もいらっしゃいますが、筆者にはそうは思えません。形は変えながらマスは存在し続けるわけで(マスの定義にもよりますが)、マスが消滅するわけではないと思います

おひとりさまを対象にしたマーケティングでは、一人暮らしなのか、家族と暮らしているのか、家族と暮らしていてもひとり感が強いのか或いはそれを大事にしているのか、所得や資産はどれくらいなのか、あと、性別と年代、暮らしている地域などを考えることが少なくとも必要だと思います。



3/01/2025

ブランディング (6)日本市場の特殊性②

失われた30年でそうなってしまったのか、終戦でそれまでの価値観が覆されたからなのか、或いは、そもそも農耕民族だからなのかはわかりませんが、相対として、日本人の多くの行動、特に消費行動については、ハッキリとした各人固有の価値観がないように感じます。このため、他者がどう思っているのか、あの人が買っているから私も、彼や彼女たちがそうしているから自分もそうしなければいけないというような感じで、自分の消費に他人の軸が絶えず介在することがふつうに起こります。

明確な判断基準がない、または希薄なため、表層的な対応というか体裁を整えることには余念がありません。流行りものには皆が競い合うように飛びつくけれど、すぐに飽きてしまうか、忘れてしまって、しばらくすると何もなかったかのように皆がもとのように振る舞う。こういった考え方や消費行動は以前から続いているようで、結果的に価値観やライフスタイルはさして大きく変わることはないというのが平成以降の動きのように感じています。


消費者を相手にする企業でも同じようなことが言えます。今でいえば、デジタルへの取り組みがその典型です。大企業に限らず、中堅・中小零細企業、国から地方自治体まで、皆が一様に同じようなことを言い、行動しています。マーケティングについても同じです。10年くらい前なら、経営などからはマーケティングなど殆ど見向きもされなかったか、余計なものくらいにしか見られていなかったにも関わらず、今では誰もがマーケティングの重要性を説いています。

ただ、そのマーケティングは、短期的な売上獲得を重視するプロモーション系のことばかりです。マーケティングを根本から理解して、経営の中心に置くということにはまずなりません(口ではそのように言っているかもしれませんが)。飽きたら、また新しいものを取り込んでいく。このため、表面的なものしか変わらず、ブームが過ぎれば、またいつもの顔を出して元に戻るといった感じです。


このような国内市場では、ポジショニングをどのように考えるのが適切なのでしょうか。今日のように一見すると複雑多様化したような市場においては、理解することが難しいように思える消費者行動も、シンプルに捉えれば、それほどとっつきにくいものではないように思います。

心理的な動機づけを見つけて、同調できる集団(準拠集団)を探していく。その集団は消費者が識別できる集団でよく、友人、知人などお互いが関係のある集団である必要はありません好き嫌いは別にして、経済格差や社会的慣習などに起因する階層意識は日本でも厳然と存在します。あまり良い表現ではないかもしれませんが、社会の階層もしくはソーシャルクラスで消費者を分類し、各クラスでのライフスタイルを考察して、消費行動を予測していくことは有益であるに違いありません。

たとえば上流階級またはアッパークラスが、週末は美術館に行ったり、美術品や骨董品に投資したりするとします(あくまでも例えの話です)。大事なことは、このアッパークラスの行動に憧憬するミドルやローワークラスの人たちをも対象にする、もしくはこの人たちを実際のターゲットにしていく。同じような可処分所得であったとしても、支出先は異なります。ソーシャルクラスによって、収入がどのように使われるのかはある程度推測できるはずです。大事なことは、最初にそのクラスの人たちの頭の中に入っていく方法を見つけ出すことです。

最初であるため、その商品には市場はなく、自ら創造していくことになります。ジャックトラウトとアルライズが述べているとおり、マーケティング競争における勝者と敗者を観察すれば、成功した商品は市場のながれに逆行したものが多い。大きいモノが流行っている時には小さいモノを、手間がかからないモノが主流の時には敢えて手間暇かけたモノを、といった具合です。


1億総中流の時代はとうに終わっていて、二極化はおろか、社会の階層化がどんどん進んでいると捉えれば、多くの消費者はより高い生活水準にある集団に憧れたり、真似たりすることが頻繁に起こっていることは推察に難くありません。勿論、消費者の関心は一様ではなく、多方面に広がっているとも捉えられるため、特定のブランドを志向する人々に的を絞り、または想定して、まずは商品(モノとサービス)のベネフィットを徹底してアピールしていくことが重要でしょう。今日では、自己表現的な因子や優越的な因子が強いのだろうと思います。

いっそのこと、ターゲットにする人のことなどはいったん忘れて、商品のベネフィットだけを考え抜いたほうが、今日のようなバランスを欠いているといっていい時代には、適しているようにも思います。


ブランディング (6)日本市場の特殊性①

日本は随分前から、世界一厳しい市場とか、他先進国と違って効率性よりも、おもてなしを重視する世界一シビアな国などといわれてきました。お客様は神様という言葉は今でも生きているばかりか、なお一層強まっているように筆者は感じます。

1960年代後半くらいから言われ始めた1億総中流時代、実際に存在していたかどうかはともかく、意識としては間違いなく信じられていたといえるでしょう。では今日はどうかというと、この1億総中流時代はとっくに終わっていると筆者は思いますし、そのように思っている人も多いはずです。それどころか、むしろ1億総中流などというものは、もともと無かったのではないかと言えるかもしれません。


筆者は人生の大半を都会で暮らしてきましたが、3年近く前にオフィスを東京に残したまま、地方へ移住しました。地元で採れた新鮮な野菜や果物、天然が半ば当たり前になっている魚など、筆者と家族にはうれしいことがたくさんあって、それは田舎で暮らす者にとっては、当たり前の日常的な光景です。

その一方で、東京の中央区日本橋や目黒区祐天寺で暮らしていた頃のマンション住人やその地で生まれ育った人々の間では、決して見られなかった消費行動をとる人たちが、田舎にはかなりの割合で存在しています。自分自身を実態とはかけ離れてよく見せようとしている人たち、平たく言えば、(極端な?)いい格好しいがたくさんいて、それは男女を問いません。個人的な印象では、それは20代から30代に特に多く、40代以上でも一定数存在しています。

そういった消費行動は、いろいろな場面で見れるのですが、その典型は、(世帯主ではなく)世帯収入の2倍から3倍、なかには5倍以上の車に乗っているという現象です。そうするために、躊躇なく残価設定ローンで車を購入(というか、所有権は基本的に自動車メーカーか信販会社にあるため、厳密にいえば購入ではない)しています。2人からせいぜい5人くらいの家族なのに、バカでかいアルファードやヴェルファイア、或いは大型のレクサスや欧州の特別大きなSUVに乗っていて、その数は日毎に増えているように感じます。

こういった現象は、筆者には到底理解できるものではありません。仕事も含め、何かに熱中して取り組むことがないのか、自分を表現することがほかに何もないのか、ただ優越感に浸りたいのか、よくわかりませんが、あまりにもそういう人たちが多すぎることに愕然とします。


このような例はほかにも幾つか挙げられます。たとえば、地方にある百貨店の化粧品売場へ行くと、ポイントの還元率が高い時などは、若いというか幼すぎるくらいに見えるような女性たちでごった返しています、特にクリスチャンディオールの前などは人が群がっているという感じです。

若いころの通過点としてみれば、それはそれでよいのかもしれませんが、問題はその人たちの服装や持ち歩いているバッグ、身につけているアクセサリーです。何故、そこまで貧相に(と言えば失礼ですが)、または場違いのように見える格好なのか・・・。化粧も含め、ファッションはトータルコーディネートです。1点だけ、豪華なんてものはありえないと筆者は思います。そういった女性たちは、だいたいルージュ系の口紅を1本買って、ディオールの袋に入れてもらっています(ネット上では、その無料の袋にプレミア価格がついて売られたりしています・・・)。男女のカップルで来ている人たちには申し訳ないですが、男のいでたちがもっさすぎる・・・。せめて、もう少しきれいな格好で来れないものかなどと、60代の筆者は思ってしまいます。


都会でも、このようなことは形をかえて存在します。顕著なのが、百貨店の食品売場で、それは生鮮の鶏肉売場などへ行くとよくわかります。鶏肉は、価格の高い順でいうと、地鶏、銘柄鶏、地養鶏、若鶏(ブロイラー)で、地鶏が仮に売場の冷蔵ケースに向かって一番左側に陳列していれば、若鶏は一番右側になるのが普通です。左側で鶏肉を買う人が出す百貨店カードはふつうのシルバーカード、右側の人のカードはゴールドカードです。しかも、ゴールドカードの人が買う量は、ほんの少しの若鶏だけです。筆者などは、わざわざ並んでまでして、ここで買わなくてもいいのにと思ってしまうのですが、店頭で接客対応している販売員は、そういったことには手慣れたものです。消費者行動の実態の一端を知りたければ、店頭販売員の人たちに尋ねればすぐにわかります。

このようにみると、大都市も地方もそう変わりないじゃないか、程度の差だけだろうということになるのかもしれませんが、都会で若鶏を買う人が都会に暮らしてるとは限りません。


このようないびつでアンバランスな消費行動は、日本特有のものだと筆者は随分前から強く感じるようになりました。欧米ではこういった消費行動はまったくないなどとはいえないでしょうが、日本では異常なまでに多いのは事実です。

ご存知の方も少なくないだろうと思いますが、米国だと、車がその人の社会的ステータスを表すと今でも言われています。欧州であれば、たとえばルイヴィトンのバッグ、日本で1970年から80年代に大流行しました。ヴィトンのバックは大きなものになるとかなり重たかったものですが、本国フランスでは、その重さをバッグの所有者は誰も厭いません。何故なら、そのバッグはサーバント(召使)が持ち運ぶからです。欧米では身分や立場によって、ファッションはまったく異なります。だからといって、たとえば米国で労働者階級の人たちが、窮屈に暮らしているかというと、全然そうではなく、逆に人生をエンジョイしているように見受けられました。米国で約7年間暮らした筆者の率直な感想です。

少し長くなってきましたので、続きは次回とさせていただきます。


ブランディング (7)マーケティングミックス③ 価格その4

マーケティングミックス2つめのP、Price/価格についての4回め、今回は先発企業の価格戦略についてです( ブランディング (7)マーケティングミックス③ 価格その1 、 その2 、 その3 )。 最初に市場に参入する企業(先発企業)は、プロダクトの価格をほぼ自由に設定することが...