失われた30年でそうなってしまったのか、終戦でそれまでの価値観が覆されたからなのか、或いは、そもそも農耕民族だからなのかはわかりませんが、相対として、日本人の多くの行動、特に消費行動については、ハッキリとした各人固有の価値観がないように感じます。このため、他者がどう思っているのか、あの人が買っているから私も、彼や彼女たちがそうしているから自分もそうしなければいけないというような感じで、自分の消費に他人の軸が絶えず介在することがふつうに起こります。
明確な判断基準がない、または希薄なため、表層的な対応というか体裁を整えることには余念がありません。流行りものには皆が競い合うように飛びつくけれど、すぐに飽きてしまうか、忘れてしまって、しばらくすると何もなかったかのように皆がもとのように振る舞う。こういった考え方や消費行動は以前から続いているようで、結果的に価値観やライフスタイルはさして大きく変わることはないというのが平成以降の動きのように感じています。
消費者を相手にする企業でも同じようなことが言えます。今でいえば、デジタルへの取り組みがその典型です。大企業に限らず、中堅・中小零細企業、国から地方自治体まで、皆が一様に同じようなことを言い、行動しています。マーケティングについても同じです。10年くらい前なら、経営などからはマーケティングなど殆ど見向きもされなかったか、余計なものくらいにしか見られていなかったにも関わらず、今では誰もがマーケティングの重要性を説いています。
ただ、そのマーケティングは、短期的な売上獲得を重視するプロモーション系のことばかりです。マーケティングを根本から理解して、経営の中心に置くということにはまずなりません(口ではそのように言っているかもしれませんが)。飽きたら、また新しいものを取り込んでいく。このため、表面的なものしか変わらず、ブームが過ぎれば、またいつもの顔を出して元に戻るといった感じです。
このような国内市場では、ポジショニングをどのように考えるのが適切なのでしょうか。今日のように一見すると複雑多様化したような市場においては、理解することが難しいように思える消費者行動も、シンプルに捉えれば、それほどとっつきにくいものではないように思います。
心理的な動機づけを見つけて、同調できる集団(準拠集団)を探していく。その集団は消費者が識別できる集団でよく、友人、知人などお互いが関係のある集団である必要はありません。好き嫌いは別にして、経済格差や社会的慣習などに起因する階層意識は日本でも厳然と存在します。あまり良い表現ではないかもしれませんが、社会の階層もしくはソーシャルクラスで消費者を分類し、各クラスでのライフスタイルを考察して、消費行動を予測していくことは有益であるに違いありません。
たとえば上流階級またはアッパークラスが、週末は美術館に行ったり、美術品や骨董品に投資したりするとします(あくまでも例えの話です)。大事なことは、このアッパークラスの行動に憧憬するミドルやローワークラスの人たちをも対象にする、もしくはこの人たちを実際のターゲットにしていく。同じような可処分所得であったとしても、支出先は異なります。ソーシャルクラスによって、収入がどのように使われるのかはある程度推測できるはずです。大事なことは、最初にそのクラスの人たちの頭の中に入っていく方法を見つけ出すことです。
最初であるため、その商品には市場はなく、自ら創造していくことになります。ジャックトラウトとアルライズが述べているとおり、マーケティング競争における勝者と敗者を観察すれば、成功した商品は市場のながれに逆行したものが多い。大きいモノが流行っている時には小さいモノを、手間がかからないモノが主流の時には敢えて手間暇かけたモノを、といった具合です。
1億総中流の時代はとうに終わっていて、二極化はおろか、社会の階層化がどんどん進んでいると捉えれば、多くの消費者はより高い生活水準にある集団に憧れたり、真似たりすることが頻繁に起こっていることは推察に難くありません。勿論、消費者の関心は一様ではなく、多方面に広がっているとも捉えられるため、特定のブランドを志向する人々に的を絞り、または想定して、まずは商品(モノとサービス)のベネフィットを徹底してアピールしていくことが重要でしょう。今日では、自己表現的な因子や優越的な因子が強いのだろうと思います。
いっそのこと、ターゲットにする人のことなどはいったん忘れて、商品のベネフィットだけを考え抜いたほうが、今日のようなバランスを欠いているといっていい時代には、適しているようにも思います。